« 2006年4 月 | メイン | 2006年6 月 »
病気になってから4年目。
2002年5月29日の朝、父が僕の異常を見つけてくれた。
たくさんの人に助けられ、たくさんの変化がおきた。
自分にも、家族にも、友人にも。
たくさんの人と出会い、たくさんの機会を与えられ、
自分らしい人生はいま始まった。
そして生きている。
ありがとう。
アメリカから電話があったり、新しいことを始めたり、
誘われたり。
今回の新月は時間や日にちを詳細にしっていなかった。
でもそんな風だったら、いろんなあたらしいことが勝手に
始まっている。
朝家の中を歩いていたとき。
イチローが子供たちに野球の指導をしたといういう
週間ニュース。
「自分にはうそをつかないでください」
というところだけが聞こえた。
久しぶりに頭がぐらぐらして立つ気力もなかった。
普段のリズムではない。
ひとりで静かにしていたい。
音楽を聞きたいという感じでもなく
本を読みたいという感じでもなく、
ましてやテレビを見たいなんてこともない。
静かに、クリアにただいたいだけ。
去年買ったテルミンの箱を開けて音をだしてみた。
テルミンは鍵盤も空気を入れるところもない「楽器」
手を動かして音をだすところに惹かれていた。
買うことを決めてから、なんで名前がテルミンなのか
と思ったりして調べた。人の名前だった。
ロシア人。
辿っていくと、フランス、カタリ派、バスチーユなど、
タロットにつながる場所などがでてきた。
そして「エーテル楽器」とか呼ばれているらしい。
これも凄い。
自分の内なる創造主に頼ることは
それ以外の全ての依存から自由になることを
意味する。
~ずっとやりたかったことをやりなさい ジュリアキャメロン~
活字を読まない一週間だった。
読まないと思うと、読みたくなる。
でもだんだん読まないことが楽になった。
読まないと不安だったこともわかった。
誰かに同意を求めるように、活字に自分との同意を探しては
安心していたんだ。
気温が上がって空気が変った。
これは、その他大勢の集団催眠的な生き方をしているいわゆる
「一般的」「平均的」な人たちからの差別用語だと思った。
でもオタクが受け入れられるようになってきたということは
人との違い、個性の尊重が広がってきたということなのだ。
境界線の問題をもっていたぼくは、実に気づかないで周りや世の中の影響を受け、そして「気」を使っていた。 そうであったことに気づき、回りの人たちの突進していく姿をみて、一方はそのパワフルさに感心し、うらやましいと思うこともある。 でも、奇をてらわない、正直にいられるように
この言葉が気になっている。
里の行をするということは浮世というところを
生きることなのかなあと感じているのかもしれない。
街をあるいていて、深刻になりすぎるまじめすぎる
自分を振り返って、肉体を持って地球にいきることは
楽しむことで、笑いや喜びや悲しみや苦しみという
感情をもち、でもそれはどうとらえるかによって、
まったく違ったものになってくること、「正しい」といわれてる
そう思っているものはあるとき「大多数」が支持をしたこと
に過ぎないと思うと、もっと自由に、一般化されない価値観を
持ちながら生きることが大切だと感じた朝の散歩。
小林 正観: この世の悩みがゼロになる
5MC&1DJ
スユアの波
高橋 信次: 人間・釈迦 1 新装改訂版 (1)
マザー・テレサ スペシャルBOX
リトル・ブッダ
ローズ・ローズトゥリー: エンパシー 共感力のスイッチをON/OFFしよう
A GIRL IN SUMMER
最近のコメント