フラッシュバックした。
小学校から高校のいくつかの場面。
スケープゴートが一番最初にでてきた。
生贄とか訳されている、ユダヤ教か聖書が
その由来らしい。「憎まれっ子」と訳される
場合もある。
子供のころにいじめられっこというのがいて
なんとなく仲間外れにされたりしていた。
いま思うと、それは一人一人の癒されない
感情をある特定の人物に投影してその
「スケープゴート」であるその子が演じて
いてくれていたということだろうと思った。
大人になってもスケープゴートになることは
できるんだなと最近思っていた。
いまは、それを買って出ることもできるように
なった気がする。
子供のころはそんなことになったら、いても
たってもいられなかっただろう。
すべてはつながっていてその人の役割が
あるのだとわかったとき、それは怖いものでは
なくなった。
もうひとつ。高校の時に友人が、ぼくが好意を
もっていた女の子にやはり好意を持っていた
ことがわかって衝撃を受けたときのことを
思い出した。
人との境界線があいまいなぼくは誰に対しても
いい人であったことと、人が満たしたいと思う
ことを感じてしまっていたために、とてもディレンマ
に陥っていた。
でもそのときはそれに耐え切れずに校外でお世話に
なっていた先生のところで泣き崩れていた。
そのときにぼくの口からは「裏切られたような感じ」
だといったのをはっきりと覚えている。
いま思えば若いころのひとつのできごとで、
そして、裏切りはほかでもない、きちんと自分の
ことがわかっていなかった、そう自分に対して
だとわかる。
今日とどいたメッセージは
「こだわっているものをよく観察しなさい」だった。
こだわっているものは執着しているものと
言い換えられるかもしれない。
なにか軋轢を感じたら、それは自分が正しくて
人はそうでなないと抵抗していることだ、
といっている。
そうかも。
花曇。夕陽。
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